【地球の記憶-霧多布湿原の人々-6】
夕刊フジというタブロイド紙の記者の冨安京子と名乗る人が11月中旬、私を訪ねて突然やってきた。人間の言葉で言えば彼女はあまり若くはないが、うんと年をとっているわけでもない。その人を紹介するのに手っ取り早く年齢をいうのはいささか短絡的で不本意ではあるけれど、まあ、ここは年齢を知りたがる人間流に-。
幸いなことに、彼女は開口一番、11月15日夜、千島列島で起きた地震と津波警報のことをトキちゃんに尋ねた。それは私も知りたかったことなので、思わず聞き耳を立てたものだ。
トキちゃんはこう話していた。
「さほど大きな地震でもないのになぜ?と不思議でしたね。午後9時ごろだったか、(浜中)町に津波警報が防災無線で出たんです。そのとき私はちょうどテレビをみてました。でも警報が出たのなら避難しなくちゃと、主人(三膳喜代志さん)やおじいいちゃん(三膳喜代一さん)と話し合って一緒に逃げる用意を始めたんです。長女は独立して札幌だし、高校2年の長男は修学旅行で京都・奈良。逃げるのは大人だけでした」
やはり人間の耳には私が9月中から聞いていた地鳴りのような耳障りな音は聞こえなかったようだ。聞こえていたら、もう少しは用心したはずだ。この危険な音を何らかの方法で人間に伝えることはできないものだろうか。
浜中町は山側・浜側・島側の3地域から成っているが、トキちゃんの家は浜中町の中心地、霧多布島にある。避難場所は車で5分のところの高台、アゼチの岬だ。トキちゃんは喜代志さんと喜代一さんと力をあわせて家の権利書や印鑑や現金、ラジオや携帯電話なんかをかき集めバッグに詰め、車に乗り込んだ。
約2時間、一家はそこにいて、何事も起きないことを確かめてから家に戻ったということだ。トキちゃんは疲れ果てて眠ってしまったが、喜代志さんと喜代一さんは津波警報が解除される翌朝午前2時まで寝ないで起きていたらしい。
トキちゃんは平成15年に起きた十勝沖地震のことも話していた。
「もう立っていられないぐらいの揺れでしたよ。あんなに頑丈だとばかり思っていたサッシ窓が地震の揺れでガタガタと大きく鳴って、フックがパチーンパチーンと自然にはずれたときにはもう恐怖心でいっぱい。窓という窓のガラスが砕けて畳に落ち、引き戸はねじれて、出入り口をすっかり防いでしまいました」
家全体が凶器と化す中、一家は命からがら高台を目指した。あのときの様子は私も逐一見ていたのでよく知っている。「早く、早く」と言葉に出して応援すると、私の声が聞こえたかのようにトキちゃんたちは「急いで、急いで」と声を掛け合い、高台へと避難した。
このときの教訓が彼女の中でちゃんと生きていたことは喜ばしいことだった。
まず避難するときには必ず食べ物やおやつを持参すること。
避難が長引くとおなかがすいてくる。そのとき何も食べるのがないのではどうしようもない。平成15年の地震のとき、トキちゃん一家は隣の車の家族がおむすびを食べるのを横目でみていなければならなかった。喜代一さんは大いにそのことを悔やんだが、今回トキちゃんは、エイヤっとご飯をジャーごと持参したし、もちろんおやつも忘れなかった。
それから緊急時の電話は控えること。
遠方にいる家族や知人は心配で安否確認の電話を寄こしたがる。けれど、あれは残念ながら避難する側の足をすくうのだ。前回のとき、喜代一さんは娘さんが寄こした電話に、「家が倒れそうで早く逃げないと危険なんだよ!」と怒鳴ったものだから、その後ちょっとふたつの家族はぎくしゃくした。けれど今回は、親戚から喜代一さんへの電話は、避難が無事済んだころ、ソロリという具合にかかってきたそうだ。
それにしてもトキちゃんの津波についての証言は衝撃的だ。私もそれをみていたからよくわかる。
それは巨大なまっ黒い蛇の横腹だった。そいつが海のかなたからこちらの海岸線へとゆっくりと近づいてくる。
私にとって蛇と見えたものは、時ちゃんの目には沖合いに横一線に延びた黒い帯と映ったようだ。そのてっぺんではシュワシュワと小さな白い泡がはじけ、黒い蛇(帯)はその泡を乗せたまま海岸べりまで一気にやってきて、私の眼前でウオーッと立ち上がった。
蛇は分厚い海水の壁と化し、私たちを威嚇した。
と、思うまもなくその壁がこちら側へとぐにゃりと崩れ、私の一部や人々の家を呑みこんでそれらを巻き込み、私の体や道路を削り取りながら再び沖へと去っていったのだ。
津波の獰猛さをこの町の人々はよく知っている。だから、今回、その毒牙がまったく及ばなかったことにみな胸をなでおろした。私も同じ思いだった。
by ansund-59
改訂・地球の記憶-霧多布湿原…