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改訂・地球の記憶-霧多布湿原の人々 7

2006/12/22 17:50

 

 話を元に戻さなければならない。そう、私のフアンクラブができた1986年のあの夏の日に。
 
 さわさわと私の上を涼気を含んだ風がわたり、その動きにあわせて私もサワサワと体をゆすって、揺れに身をまかせていた。あの日の始まりは、そんなふうに訪れた。

「こんなに美しい場所はそうないよ。この自然をずっと残してこうよ」
 そんな声が、突然私の耳に届いた。トキちゃん、ウリちゃんの声がとりわけ大きかった。その前、二人は伊東(俊和)さんを中心に地元の仲間と一緒に、「霧多布湿原にほれた会」を作っていた。ほれた会ができたときだって、私は十分彼らに好かれていると思うことができたものだった。それが一気に「フアンクラブ」になったのは、好きな気持ちが一層高じたのだろうか。なんとなくくすぐったいような、それでもとてもいい気持ちだったことを覚えている。

 繰り返しになるけれど、3方を丘陵に囲まれ太平洋に向かって開いた3000ヘクタールが私の全貌だ。

 確かに-
 私はこれまで北海道東部のこの一角で、動物と植物と水鳥たちの楽園ともいえる場所を提供してきた。私自身の体は枯れた植物と土砂が交じり合ってできた泥炭層だから、丘陵から流れる水だけでなく雨水や雪解け水を溜め込む役目も受け持っている。ささやかながら私は洪水を防ぎ、一方で、丘陵と私を通過して海へと流れる栄養分豊かな水系を構成し、沿岸の漁業資源を維持することにも貢献しているのだ。

 もっとも湿原は私に限らず、「自然界の腎臓」といわれている。人間の肝臓が体の組成を一定に保つように、私という存在がこの地からなくなれば、そうした恩恵も消えるということなのだ。

 私は時々、人間の役に立っているのだろうかと、真剣に考えることがある。そのとき、少なくとも、これらの働きは、「YES」と胸を張れるひとつなのかもしれないと思う。

 私は町の所有を除けば、大部分は細かく区画された私有地である。大勢の地主が私の管理者として名を連ねているというわけだ。だから伊東さんたちは、この私有地が都市計画なんかで一気に開発され、自然が壊されることに大きな危機意識を持ったようなのだ。

 フアンクラブの事務局長は、トキちゃんと決った。この人選には、伊東さんのある願いが込められていた。

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地球の記憶-霧多布湿原の人々-6

2006/11/24 20:36

 

【地球の記憶-霧多布湿原の人々-6】
 
 夕刊フジというタブロイド紙の記者の冨安京子と名乗る人が11月中旬、私を訪ねて突然やってきた。人間の言葉で言えば彼女はあまり若くはないが、うんと年をとっているわけでもない。その人を紹介するのに手っ取り早く年齢をいうのはいささか短絡的で不本意ではあるけれど、まあ、ここは年齢を知りたがる人間流に-。
 
 幸いなことに、彼女は開口一番、11月15日夜、千島列島で起きた地震と津波警報のことをトキちゃんに尋ねた。それは私も知りたかったことなので、思わず聞き耳を立てたものだ。
 トキちゃんはこう話していた。

「さほど大きな地震でもないのになぜ?と不思議でしたね。午後9時ごろだったか、(浜中)町に津波警報が防災無線で出たんです。そのとき私はちょうどテレビをみてました。でも警報が出たのなら避難しなくちゃと、主人(三膳喜代志さん)やおじいいちゃん(三膳喜代一さん)と話し合って一緒に逃げる用意を始めたんです。長女は独立して札幌だし、高校2年の長男は修学旅行で京都・奈良。逃げるのは大人だけでした」

 やはり人間の耳には私が9月中から聞いていた地鳴りのような耳障りな音は聞こえなかったようだ。聞こえていたら、もう少しは用心したはずだ。この危険な音を何らかの方法で人間に伝えることはできないものだろうか。

 浜中町は山側・浜側・島側の3地域から成っているが、トキちゃんの家は浜中町の中心地、霧多布島にある。避難場所は車で5分のところの高台、アゼチの岬だ。トキちゃんは喜代志さんと喜代一さんと力をあわせて家の権利書や印鑑や現金、ラジオや携帯電話なんかをかき集めバッグに詰め、車に乗り込んだ。
 約2時間、一家はそこにいて、何事も起きないことを確かめてから家に戻ったということだ。トキちゃんは疲れ果てて眠ってしまったが、喜代志さんと喜代一さんは津波警報が解除される翌朝午前2時まで寝ないで起きていたらしい。

 トキちゃんは平成15年に起きた十勝沖地震のことも話していた。

「もう立っていられないぐらいの揺れでしたよ。あんなに頑丈だとばかり思っていたサッシ窓が地震の揺れでガタガタと大きく鳴って、フックがパチーンパチーンと自然にはずれたときにはもう恐怖心でいっぱい。窓という窓のガラスが砕けて畳に落ち、引き戸はねじれて、出入り口をすっかり防いでしまいました」
 
 家全体が凶器と化す中、一家は命からがら高台を目指した。あのときの様子は私も逐一見ていたのでよく知っている。「早く、早く」と言葉に出して応援すると、私の声が聞こえたかのようにトキちゃんたちは「急いで、急いで」と声を掛け合い、高台へと避難した。

 このときの教訓が彼女の中でちゃんと生きていたことは喜ばしいことだった。
 まず避難するときには必ず食べ物やおやつを持参すること。
 避難が長引くとおなかがすいてくる。そのとき何も食べるのがないのではどうしようもない。平成15年の地震のとき、トキちゃん一家は隣の車の家族がおむすびを食べるのを横目でみていなければならなかった。喜代一さんは大いにそのことを悔やんだが、今回トキちゃんは、エイヤっとご飯をジャーごと持参したし、もちろんおやつも忘れなかった。

 それから緊急時の電話は控えること。
 遠方にいる家族や知人は心配で安否確認の電話を寄こしたがる。けれど、あれは残念ながら避難する側の足をすくうのだ。前回のとき、喜代一さんは娘さんが寄こした電話に、「家が倒れそうで早く逃げないと危険なんだよ!」と怒鳴ったものだから、その後ちょっとふたつの家族はぎくしゃくした。けれど今回は、親戚から喜代一さんへの電話は、避難が無事済んだころ、ソロリという具合にかかってきたそうだ。

 それにしてもトキちゃんの津波についての証言は衝撃的だ。私もそれをみていたからよくわかる。

 それは巨大なまっ黒い蛇の横腹だった。そいつが海のかなたからこちらの海岸線へとゆっくりと近づいてくる。
 私にとって蛇と見えたものは、時ちゃんの目には沖合いに横一線に延びた黒い帯と映ったようだ。そのてっぺんではシュワシュワと小さな白い泡がはじけ、黒い蛇(帯)はその泡を乗せたまま海岸べりまで一気にやってきて、私の眼前でウオーッと立ち上がった。
 蛇は分厚い海水の壁と化し、私たちを威嚇した。
 と、思うまもなくその壁がこちら側へとぐにゃりと崩れ、私の一部や人々の家を呑みこんでそれらを巻き込み、私の体や道路を削り取りながら再び沖へと去っていったのだ。

 津波の獰猛さをこの町の人々はよく知っている。だから、今回、その毒牙がまったく及ばなかったことにみな胸をなでおろした。私も同じ思いだった。

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地球の記憶-霧多布湿原の人々5

2006/11/18 18:46

 

  そう滅多にあることではないが、夏の盛りのあの短いまどろみのあと、今度は本格 的な眠りへと移行していったようだった。私の目や耳は外界を完全に遮断し、意識 は、自分の内へ内へと静かに落ちていった。おそらく、人間がいうところの「死」そ のもののような静寂と無意識の世界を私はしばらく漂っていたはずだ。
  けれどその実、眠りは時々さまたげられた。目を閉じたままではあったがその都 度、私の神経のどこかがヒリヒリときしむのを感じていなければならなかった。
 というのも、熟睡を始めて2ヵ月後の9月下旬ごろだったろうか。ここではない遠 い場所から、かすかな地鳴りのような音が断続的に聞こえてきたのだ。10月上旬に は、ちょっとした振れも感じた。
 私は知っていた。
 あの音とこの感触。そう、何度も経験した地震である。地球の奥深い場所が大規模に崩れ、その崩壊音が私の耳に届いていたのだった。
 そして11月15日午後8時15分ごろ、10月のものよりもっと強い振動が、つ いに私の五臓六腑を打ちすえた。当然ながらそれは眠りを破り、目をこじあけ、意識を覚醒させるに十分なものだった。いまだもうろうとした頭の中に人々の、「震度2 だ」などという言葉が飛び込んできた。
 言葉の端々を総合すると、地震は、浜中町から東に遠く離れた千島列島で起きたと いうことだ。マグニチュード(M)8・1。大地震である。
 北海道東部から紀伊半島あたりまでの太平洋沿岸とオホーツク海沿岸に、気象庁と かいうところから津波警報と注意報が次々に出されていった。浜中町にも津波警報が 出て、防災無線が避難を勧告した。だから人々は食後の一家だんらんをすみやかに中 断し、貴重品だけを持って車に乗り込んだ。そしていっせいにスターターを駆動させ エンジンをONにし、ライトで目の前の闇を照らしたのだ。
 私には一抹の不安はよぎったものの、たとえ大事になろうとも、今回も人々は危機を無事乗り切るだろうと信じていた。なぜなら、最初にいったように、ここは幾度か の十勝沖地震とチリ沖大地震で発生した津波を体験している。その中のいくつかは 人々のすべてを奪い、そこから人々は這い上がり再建した町である。だからその再来 におびえこそすれ、パニックになる人はあまりいなかった。自然との折り合いを上手 につけ、それを一部は容認し、それがこの地域で暮らす者の定めと受け入れてきた人々の落ち着きがあったように思う。
 町はずれの高台に建つこの話の主人公のひとり、伊東さんの家へと続く山間の細い道には避難してきた車の長い列ができていた。葉を落とした木々の間からチラチラとライトが跳ね、やがて広い敷地内には100台ぐらいの車が集まったようだ。
 「ちょっとした緊張感は走りましたが、ここの人たちはなれていますからね、津波」
 伊東さんが心配してかけてきた電話の向こうの人に、そう説明しているのが耳に入ってきた。声のトーンもいつもと同じ。伊東さんもあわててはいなかった
 もうひとりの主人公である瓜田さんは、実家に一人暮らす父親の様子を見にいった。
 時ちゃんはそのときどうしていたのだろう。私は町の人々の安全に耳目を集中していたので、つい彼女から目を離してしまった。しかし気丈な時ちゃんのことだ。きっと、家族と一緒に避難場所を目指したに違いない。
 きょう、眠りから覚めて初めて、自分の体をしみじみと眺めてみた。あんなに色とりどりの花々をまとっていた体は、終焉を迎えた植物たちが茶褐色の衣となって私を取り巻き、時折、風に拭かれたカサコソとしたつぶやきをもらしている。熟睡の期間は何と4ヶ月になんなんとしていた。
 危機はひとまず去ったようである。
 季節は--晩秋。 (つづく)

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地球の記憶-霧多布湿原の人々8

2006/07/21 22:28

 

 コトン、コトン、コトン・・・・
 かすかな音。私の中のどこかがざわついた。でも、それが何の音かわからなかった。どうやら私は昏睡にも似た深い眠りの中にいたようだ。

 そう、私はいつの間にか、今度は1年間も眠ってしまったようなのだ。しかもこれまでにないほど深く深く。年齢には逆らえないといっても、地球の長い歴史から比べると、私はまだひよっこみたいなもの。ウツウツラするにはまだ早い年齢だ。

 けれどそんなことはこの際どうでもいい。問題は肝心のその音が何であるかを、早く知らねばならぬことだった。私は五感を眠りから目覚めさせるための〝儀式〟を行った。ザワザワと体を動かすのだ。ゆっくり、ゆっくり。
 ザワザワ、ザワ・・そこへ、コトン、コトンがまじる。

 ザワザワ、コトン、ザワザワ、コトン・・

 でも完全に目覚めきらない前に私にはわかった。それはトキちゃん心臓の鼓動だったのだ。眠りに入る前、いったい私は何を見、聞いたのだったか。そうだ、トキちゃんが私のフアンクラブの理事長になるという素敵な話だったんじゃなかったのか。あれは確か1986年。
 でも、違う。コトン、コトンは2007年の時代から響いてくる。

 なんだ、なんだ、いったい何が起きたんだ。

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地球の記憶-霧多布湿原の人々3

2006/06/29 22:47

 

「地球の記憶-霧多布湿原の人々」
第3回
             冨安京子
 私(霧多布湿原=きりたっぷしつげん、北海道浜中町)は今、全身を真っ白でフワフワとしたワタスゲに覆われている。人間の言葉で言えばまさに満開、「見ごろ」である。その間から赤紫のハクサンチドリ、黒に近いクロユリも顔をのぞかせる。そう、年間でもっとも美しい季節がめぐってきて、私の中を貫く木道の上には観光客の足音とさんざめきがひきもきらない。いっときは雨まじりの日もあったから、彼らが足を滑らせたり転んだりしなければいいのだがと心配ばかり。どうやらそれも杞憂に終わろうとしている。
「オッ、咲いてるな」
 数日前、土地っ子の瓜田勝也さんの甲高い声で目を覚ました。彼は、私の懐の中で「ポーチ」というペンションを営んでいて、観光客の中の数組は、ポーチの大事なお客さんでもある。
 友人や仲間たちは彼のことをウリちゃんと呼ぶ。だから私もそう呼ぶのだが、そのウリちゃんは毎朝、起きるとすぐペンションから飛び出して、私を隈なく観察する。といっても、例によって目線をぐるりと360度回すだけだ。
 この季節にしか咲かない、バターカップという名前の黄色い光沢のある花をみつけ、彼は大はしゃぎだったのだ。ポーチの前の大通りの脇に巨体を折り曲げしゃがみ込み、高さ数センチしかないバターカップにそうっと手をかざしていた。花の艶やかな黄色が両の掌で揺れ、それは優し気な光景をかもし出していたものだ。そんなとき、この人の目はうんと細くなる。子どもを愛でているときと同じ目だ。このウリちゃんのことは、後で何度も出てくるから覚えておいてもらえればとてもうれしい。
 そうそう、今回は大事な話をする約束だった。私の親友ヤチボウズの紹介である。
 私自身の生い立ちは別な機会に詳しく話すつもりなので、ここでは私とヤチボウズの切っても切れない関係を伝えておきたいと思う。
 突然だが、私は大昔、海だったことがある。やがて私は地殻変動に従って隆起し、長い長い時間をかけて今の姿になった。だから私をつくりあげたものは、「時間」そのものだといっていい。
 泥炭、これが私の体の大部分をつくっているものの正体だ。泥炭には最初から美しい花々は咲かないことになっていて、真っ先に出現したのはヨシやスゲやミズゴケなどだった。今では湿原の植物の代表格などとおだてられている彼らだが、今も昔もどっちかというと地味、その点はまるで変わらない。だがじめじめした環境にはめっぽう強いのが彼らのような打たれ強い植物たちなのだ。
 このヨシやスゲが同じところにかたまって育ち、それが何年も何年も繰り返されると、その場所には彼らの死骸からできる泥炭の盛り上がりが誕生する。そのこぶの上にはまたヨシが茂り泥炭ができて・・という具合。盛り上がりはあたりを少し高い場所から睥睨する形になって、ほんのちょっと目立つ、それがヤチボウズなのだ。
 反対にヤチマナコと呼ばれる場所もある。こちらはというと、水溜まりになったところに周囲からヨシなどが覆い茂ってできた場穴ぼこ。ヤチボウズが私の中のでっぱりならヤチマナコはへっこみ、両方はまあ、兄弟みたいなものだろう。
 ところで食べられるヤチマナコが出現したときには、さしもの私も大いに驚いた。ポーチの隣人「霧多布湿原トラストインフォメーションセンター」を守る三膳時子さんがこしらえる特製料理のひとつだ。センター内の喫茶店で出してくれるのだが、コーヒーつきで600円。これは大きな丸いパンをくりぬきクラムチャウダーを詰めたもので、一度食べると何回でも食べたくなる。そんな話を何人ものお客さんがしゃべっているのを私はさらなる驚異を持って聞いたものだ。今でも「ヤチマナコをひとつ」などと注文する声にその都度肝が冷える思いだが、そろそろ慣れなければと考えているところではある。
 三膳さんのニックネームはトキちゃん。もちろん私もそう呼んでいる。トキちゃんも、この長い物語の主人公のひとり、どうか頭の中にとどめておいてほしい。
 さて今、私の胸はトントン高鳴っている。私の北、西、南の三方に連なる丘陵と、太平洋に囲まれた場所で、本格的な夏を前に木々は日一日と緑を濃くし、私の北部に帯状に並んだ長沼、水切沼、ジュンサイ沼、また南部を縫う一番川、二番川、琵琶瀬川の水位はどんどん深みを増し、高く青い空の色をくっきりと映し出し始めたからなのだ、きっと。
 この場所で、ウリちゃんとトキちゃん、そして伊東さんは出会った。20数年前のことになる。

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地球の記憶-霧多布湿原の人々(2)

2006/06/22 17:19

 

「地球の記憶-霧多布湿原の人々」

第2回          

                        冨安京子

 

 

 風がわき起こり、あたりは再び吹雪に閉じ込められた。雪がほおにあたるのもいとわず、伊東さんは頭を360度、グルリとめぐらせた。彼の視野の中に私はいた。
「うーん、人間と湿原の距離が近いよなぁ、今立ってるこの場所も湿原のただ中なんだよ、こんな所は日本広しといえどもそうないんじゃないか」
 伊東さんは吹雪の中で目を細め、妻のほうに顔を向けた。それに応えるように彼女の小さな頭がうなずくのがみえた。
 ところで私はいくつかの特技を持っている。そのひとつは、(私ときちんと視線を合わせた人に限るのだが)その人のこれまでの人生の印象深い部分だけを瞬時に読み取ることができること。なぜ私が最初から伊東さんが東京に本社がある食品会社の札幌支店に勤務していることを知っていたかというと、こんな理由があったのだ。
 特別な力のおかげで私はまた、伊東さんが学生時代、山男としてならしていたことを知ることができた。それが高じたのは、負けず劣らずの山男だった5歳後輩の影響もあるらしい。社員旅行で山に行ったときのことだ。
 伊東さんが目ざとく白い小さな花をみつけて「きれいだな」というと、彼は「これはハチが好むミネウスユキソウという花ですね」などと、聞いたこともないような花の名前を返してくる。そしてー
「キク科ウスユキソウ属、今この季節、夏に咲く花です。葉っぱの両面に白い綿毛があって花弁みたいでしょ。花には目立つものもあればそうでないものもある。花が咲かないと人間は相手にしたがらないけれど、花だと伊東さんが思ってるものの中にも実は花ではないものもありますよ。でもいえることは花の咲かない花はないってことなんです。人間がそれを見落としてるだけなんですよね」
 このほかにも次から次へと花々の名前が飛び出し、伊東さんの頭の中は花の名前でいっぱいになった。ある程度は山を知っているつもりになっていた。けれど上には上がいる。シャクだがヤツの講釈には一理あるなー伊東さんはそう思った。それに自然は季節が巡ってくれば、だれが頼んだわけでもないのに花や実をつける。この規則正しいリズムは子孫を残すという、生き物としての大事な任務も果たしている。そう思ったとき、伊東さんの胸はコトン、と高鳴った。
「目からウロコだなあ」
 実際伊東さんはそうつぶやいたものだが、その声は私も聞くことができた。あ、いっておくが、その気になれば、私自身の意識は「現在」だけでなく過去にも未来にも自由に飛ぶことができる。これが第二の私の力だ。なにしろこういった力を持っている生き物といえば、私以外ではかなりの老木か1000年以上も位置を変えずそこにいる岩や河などだけだ。しかし滅多なことでは時空は超えないことにしている。不在の間、「現在」をつつがなく連続させるには、かなりの労力がいる。なにしろ「不在の間の時間を取り戻す」という重労働をしなければならないからだ。時間に重さだの大きさがないと思い込んでいるたいていの人間には想像もつかないだろうが、私にとって時間とは重くかつ微細だがそれ相応の場所をとるものなのだ。
 そういうわけで、現在を留守にするとき留守番役を頼むのは、もっとも頼りになるヤチボウズである。彼は私より少し若い。その分、記憶力も優れている。彼が私のいない間に起きた「現在」を正確に覚えていてくれるおかげで、私はずいぶん助かっている。過去からも未来からも、すぐさま「今」へ帰ってこられるからだ。ヤチボウズ? 彼の紹介は次回ですることにして、伊東さんの話にもどそう。
 ともかく、この出来事は、伊東さんが自然を強く意識した最初のものにになったようだ。登山というのは、単に頂上をめざすだけのものではない、そんなようなことを知ったのだった。
 やがて後輩は事情があって会社をやめることになった。彼は別れ際、愛読していた保育社の「植物図鑑」3冊を伊藤さんにプレゼントしたそうだ。手垢のついたその本が、伊東さんには宝物のように映ったという。

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地球の記憶霧多布湿原の人々

2006/06/15 12:15

 

『地球の記憶-霧多布湿原の人々』
第1回                
                     冨安京子

 

 私は湿原である。名前は霧多布(きりたっぷ)という。ゆうに2000歳は超えたはずだが、細かい年月までは数えていない。人間に比べればもちろん長生きだといえるが、45億年という気の遠くなるような地球の年齢からみればほんの生まれたばかり、青二才と呼ばれても反論はしないつもりだ。だから私は老練で頑固な一面と、初々しいが経験の浅い若輩者の顔をあわせ持ったから、今このときも自分だけの歴史を刻み続けることができるのだと思う。私の言い回しに時代がかったところと稚拙な部分があると感じるとしたら、年齢という時間の持つパラドックスだと思ってくださればうれしい。

 さて、私のいる場所をきちんと説明しておかなくてはならない。
 北海道では道東に位置する釧路湿原の知名度は群を抜いている。したがって、説明はそこから始めたほうが手っ取り早いだろう。知名度に関していえば私は釧路湿原の足元にも及ばない。けれど実は、その釧路湿原のすぐ脇に私はいるといってもいい。
 釧路湿原の東隣には広大な厚岸(あっけし)道立自然公園が広がっている。そのほぼ中央にあるのが厚岸湖だ。湖の北側には別寒辺牛(べかんべうし)湿原、そして南側、つまり太平洋側に横たわるのが私なのだから。
 道内には60以上もの大小の湿原が点在するが、南北約9キロ、東西約4キロ、面積2504ヘクタールの弓形をしているのが私。特異なこの姿は生い立ちとも深く関係しているのだがその話はうんとあとに回すとして、かつて国内では、尾瀬、釧路湿原に継ぐ広さといわれていた。けれど、ラムサール条約の湿地の定義が導入され、それに照らすと、国内10番目の広さの湿原ということになる。
 10番目! 結構自慢できる順位だとは思うが、私の名前を知る人がそういないのは惜しいことだ。いくらか残念なそういった事情はあるにせよ、私の特徴を一言でと請われれば、「花の湿原」だと、これだけは胸を張っていえる。初夏には白いワタスゲ、紫のヒオウギアヤメ、クロユリ、そして夏の黄色いエゾカンゾウ。エゾカンゾウは町の花にも採用され、そのほかにも四季にあわせて数々の花々が私の全身を飾ってくれるおかげで、花好きの人を呼び寄せ楽しませてきた。
 そろそろ私が属する町を紹介しなければ。ここは、人口7844人、面積428平方キロメートルの北海道浜中町。町と私とはいわば一身同体といってもいいほどで、だからこそこれからもずっと一緒に歩んでいく命数にある。私は浜中町であり、町は私なのだ。
 ああ、そうそう、浜中が一時期、全国的に有名になったことがある。湿原のすぐ目の前、太平洋上に浮かぶ嶮暮帰島(けんぼっきとう)に1971年(昭和46年)から1年間、あの動物王国の主、ムツゴロウさんがたくさんの動物たちと暮らしてた。島にもスズランやエゾリンドウがあふれんばかりに群生し、花の湿原の飛び地としても面目躍如で、その関係から私を知っている人があるいはいるのかもしれない。
 それに年配の人なら浜中町と聞いて、思い出すことはないだろうか。
 1952年(昭和27年)に起きた十勝沖地震。海抜ゼロメートルの私は海底の土砂を巻き込んだ津波に呑まれながら、目の前を多くの住居がされ海に消えていくのをなす術もなく眺めていなければならなかった。深い悲しみと喪失感が私の中に満ち、なかなかそれは消えてはくれなかった。なのに1960年(昭和35年)、今度はチリ沖大地震で発生した大津波が市街地などを襲い、海から山へと駆け上がった大量の水が瓦礫とともに私をえぐり、みるも無残な姿になったものだ。新聞でも連日、その被害の甚大なことを報じたので、「ああ、あそこか…」と記憶の片隅から「浜中」と「霧多布」の文字を引っ張り出した人が、幾人かはいるに違いない。
 自然の脅威には、自分でいうのもおかしいが、逆らえないものだ。災害が何か一定の周期で繰り返されるとしても、それがどういうメカニズムで起きているのか、私が本当のところを知っているわけではない。ただ、あの2回の災害の前にも大地震はあって、そのときどきに私は私の全身が激しく揺すぶられ、おそらくは人間よりはるか前から、地球がたてる地響きにも似た異音を全身でとらえていたことは確かだった。
 人間は大災害を体験してそのメカニズムを知りたがり、安全な暮らしに結びつけようと躍起になっている。それは無駄なことでは決してないが、自然のメカニズムは地球自体の長い長い地史と、それから短期間の変化が複雑に組み合わさっているものだから、真実にたどり着くのにはもう少し時間がかかることだろう。私の年齢をもって、逐一災害の状況を説明できたとしても、それは地域的なものであって災害全体をとらえたものにはならない。コンピューターという“飛び道具”を使って、観測データからさまざまなシミュレーションをしたりしても、手がかりはつかめるが、すべてを知ることは不可能だ。つまり、それが自然というものなのだろう。
 だから私は当時、悲惨な状況だったにもかかわらず、それをただ受け入れることに専念した。
 当然、人間はそうはいかなかった。人々の関心は町と生活の復興に向けられ、熱心にそれが行われた。その中で、汚泥に埋まった私は、いよいよ無用の長物の様相を濃くしていったのかもしれない。人々は私の存在など眼中になく、どちらかといえば無関心に近かったと思う。
 やがて町に元気がよみがえり、人々に笑い顔が戻ったころ、この国は高度経済成長期の坂道を登りかかっていた。ご多分に漏れず私の周囲には新しい住宅が建てられ、それにつれて町の人口も増えていった。
 だが、この時期、つくづく湿原という存在は経済成長の対極にあるものだと自覚させられたものだ。たとえば家を建てるには地盤が弱く、もちろん道路も同じ理屈で造りにくい。「役たたず」-実際、そんな罵声が風に乗って私の耳に届いたこともある。
 昔から、暮らしの役に立たない私をごみ捨て場にする人は多かったが、あの時期、豊かになっていく暮らしの一方でうち棄てられる生活用品や生ごみは増え、私はそれらにからめとられていった。花を咲かせる気力もうせたことがある。そんなときですら、アシなどはツンツンとんがった青々とした葉を力いっぱい茂らせ、逆境でもたくましく生きられることを私にみせつけてくれたものだった。まあ、アシなりの無言の励ましだったのだ。
 振り返れば、あの時代、私は死に絶える寸前にいたのに違いない。
 だが、一人の人間が私を文字通りの泥沼から救い出してくれた。伊東俊和さん。私は私の命がある限り、彼の名前を忘れることはできないと思う。
 彼が最初に私のもとを訪れたのは1981年(昭和56年)のこと。当時彼は食品会社の札幌支社に赴任し、冬の休暇を利用して私のもとに妻と一緒に車でやってきた。私はそのころ災害の傷跡もほぼ癒え、ごみ捨て場としての自分の立場も受け入れて、棄てられたごみをおなかの底深く沈ませることで、その上に見事な花々を咲かせるという方法を編み出してもいた。
 だが、伊東さんが来た日、花はなく、私はただ広大なだけの雪原と化していた。そんな私に伊東さんのつぶやきが聞こえてきた。
 伊東さんはこういった。
「なんて美しいところなんだろう、ここは」
「美しい」という賛辞が私に向けられたものだとは、しばらくは気がつかなかった。人間に美しいとほめられたのがいつのことだったろう。私は耳を澄まし、その言葉の心地よい響きに身を任せた。おなかの中に廃棄物を抱えていることも忘れて
 あたりには吹雪がい風の音がそれに重なって、それらが荘厳な冬の空気となり私と町と伊東さん夫妻を包んでいた。伊東さんには、それが大地の発するうめきのように思われたらしい。しばらく耳を澄ませ、うめき声(と思われる音)がおさまったとき、彼は私にまっすぐ目を向けた。そして伊東さんは再び、口を開いた。
「雪のパノラマだよ、これはまさに」
 妻の声は聞き取れなかったが、私は二人が同じ思いであることを感じていた。(つづく)

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